にんげんっていいな


「ママーげんじつってなあに?」
「しっ…見ちゃだめよ」

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大人になっていくたび、知らないほうがいいこと知る。当たり前なのである。子どもは何も知らないのだから。知らないほうが、いいのだから。
「子どもは知らなくていいのよ」という言葉は信じたほうがいい。でも、知りたがってしまう。秘密にされると尚更、知りたくなってしまう。ジレンマ。

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人間のすごいところは、学んでいくところだと思う。学ぶためには、知る必要がある。だから避けることはできない。どれくらい学ぶかより、何から学ぶかが、大きいのだと思う。
だから、大人や子どもという区切りは区切りでしかなく、年齢というものは時間と数字でしかない。大した意味はない。けれども、大事にしなくてはならない。大して意味がないものほど、考えることで大きく変わってくる。
そしてこの話にはきっと終わりがない。正しい答えもない。…哲学というのかな。人間というものにはきっと飽きがこない。賢い生き物だから。
そう考えると人間はとてもおもしろく、楽しい生き物だ。謎は解ければ解けるほど生まれる。途方もないかもしれない。怖いことかもしれない。でも楽しいと思えば楽しくなる。人間は楽しい生き物なんだ。

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学ぶというのは、頭に入れる、身につけるということで、ただ知ることとは違う気がする。知ることはできても、それを学ぶかどうかは別で、その人の意志によるものだと思う。それって人間だけじゃないかな。ぼくは学ぶということの節々に「これって人間特有なのでは?」と思う。それってとても人間らしいことじゃないだろうか、と。
これはぼくの価値観であって、人それぞれ定義は違うと思うから、なんともいえないことだけれど。でもぼくは、人間は学ぶからすばらしいんじゃないだろうかと思うのです。
つまり、言いたいことは「学びってすばらしい!」ということではなく「人間ってすばらしい!」ということです。

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文頭のやりとりでは現実は見るもの、としているけれど、はたして現実とは見るものなのだろうか。知るもの?感じるもの?「現実味」という言葉があるということは、味わうものなんだろうか?もしくは食べるもの?――様々な言い回しがあるし、様々な捉え方があって当然だ。それだけでも不確かなのに、それから先を考えるのはもっと不確かだ。
しかし「現実を食べる」とは、まるでバクの反対だ。「現実は食べ物」なんて聞いたことがないけれど、なにか新しい食べ物なのかもしれない。それもまた、あってもいい?…どうだろう。

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ずいぶん長くなってしまった。簡単な疑問から、難しい話になっていくのを目の当たりにしたような気持ちだ。子どもが大人になる過程に近いものがあるかもしれない。
そしてわかったこと。子どもが突然口にする疑問ほど恐ろしいものはない。ほんとうに。何も知らなくていいんだ。知らないほうがいいんだ――

そしてまた原点という名のスタートに戻る。とんでもない人生ゲームだ!


***

という長々と時間を使った今、気づいた。学ばない人間がここにいることを。……。
「学ばない」は「学んだけれど忘れた、学んでいない」と「学ぼうとしない、学ぶつもりがない」の両方の意味があるわけだ。どっちだ?と考えたところであまり意味がなかった。

つまり。今ぼくは人間じゃないんだ。学ばない生き物という…なにか…なんだ。

「わかりましたね?」
「……」
「返事は?」
「……はい」

――にんげんっていいな。